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2020 03,18 13:47 |
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〔Ⅳ〕変革的リーダーシップ論…その光と影 (a)コッターは、①長年テーマとされてきた「課題達成」のために鍵となるのが「リーダーの掲げるビジョン」であるとし、「変革を実現する8段階」なるものを提唱した。②また、経営において従来重視されてきたマネージメントに対置するかたちでリーダーシップを位置づけた。③さらに、変革を担うリーダーとしての能力としてコミュニケーションにも重点をおいた「対人態度」と「高いエネルギーレベル」にも触れている。④最後に、注目すべきこととして、新しいリーダー(シップ)の育成という領域についても触れている。この①②を検討することがこの項での核心となるだろう。 (b)ティシーは、コッターのこの①ビジョンのキー概念化は踏襲しつつ、また②リーダーシップをマネージメントに対置することも踏襲している。しかしティシーの功労は、コッターが萌芽的にとりあげたリーダー(シップ)の育成についても「リーダーシップ・エンジン」論として一歩踏み込んだ展開をしている点にあるのではないだろうか。この項ではこの点についても―コッターの③④と関連づけながら―触れておきたい。 ●変革的リーダーシップ論登場の背景 前項に上記したように、リーダーシップ論が変遷してきことは、当然にも、時代的・社会的背景をもつ、というよりもある時代的・社会的要請によってその変遷はもたらされてきた。リーダーシップ先天性論の否定がその最たるものであるし、そして変革的リーダーシップ論が登場したこともまた、けっしてその例外ではない。企業をとりまく環境がめまぐるしく変化し日々荒波のように難題がアメリカ経済を襲ったことがそれである。 1980年代「JAPAN as NO1」ともてはやされた時代に、その対比として、厳しい国際競争に直面しアメリカと要請経済が低迷し行き先が見えない閉塞感に襲われているなかで、起死回生の期待をもってこの変革的リーダーシップ論は提唱され、80年代後半から90年代後半にかけて一世を風靡し、今なおその小さからぬ影響力を保持しているわけである。 こうした背景からして当然のように、その旗印は「変革」であるとされた。経済活動がいちじるしくグローバル化しかつスピードアップし、市場の環境変化・複雑化も増大し、情報の氾濫ともいえる状況も進展する…こうした生き馬の目を抜くような状況のなかで、スピーディーな企業判断と対処がシビアに問われた多くのアメリカ企業体において、これらを十全に成就していくためにどうすれば良いのか。ほんの一部の幹部がスタティックに経営管理=マネージメントを進めれば事足れりという時代はとうの昔に過ぎ去り、また一部のスタッフがリーダーシップを発揮すれば無事に過ごせるという時代状況ではまったくなくなった。企業体やその構成部署をひとりのリーダーが束ねていくことが困難となり、企業体のありとあらゆる層が、ありとあらゆる担い手がそのことを求められる状況になったということである。 ●マネージメントへのリーダーシップ対置の虚妄 コッターにせよティシーにせよ、リーダーシップをみずからの理論のキー概念とし、それをマネージメントに対置し・前者の優位性と重要性を力説している。だがその内実は空回りしている。 まずもって理論の対象領域としてみてみよう。マネージメントとは一般的には管理を指しさまざまな領域を対象としてもつが、彼らが論じるそれは企業管理(主には)経営管理にかかわるものである。他方、リーダーシップもまた一般的には多くの領域を対象としてもつが、彼らが論じるそれは企業実践におけるそれを指す。だとしても、両者の対象領域は必ずしも同じではない。マネージメントが主に経営管理を対象領域とするのにたいして、リーダーシップは、企業運営も、経営も、人材育成も、さらには種々のイベントさえをも対象とするのだからである。それゆえ、常識的に捉えるならば、両者をまったく同じ土俵で対比すること自体に設定の無理が生じている。 むろん彼らは、リーダーシップをマネージメントに重なる対象領域において取り扱うという無自覚的な・あるいはなかば意図的な前提において立論しているわけだが、仮にそうであったとしても大きな問題がはらまれている。周知のように、変革的リーダーシップ論が跋扈する以前のアメリカ経済においてはマネージメント概念がキー(鍵)とされてきたが、ここにおいては、企業体がそれをとりまく環境にうまく適応し既存の企業システムの統制を維持することが主眼とされてきた。というよりも、それで事足りた。 ところが、激動の時代に突入した段階では、変革的リーダーシップ論者たちは、より実践的=「変革」的に組織をつくり・環境に立ち向かわなければ、とても太刀打ちできないと感覚し、そのことを主眼とした、ということなのである。そこでは守旧的なマネージメントにたいして、変革的なリーダーシップというシェーマ(図式)が描かれていたが、いわばそれは、ひとえに企業運営理念・運営スタイルにおける否定として位置づくもののはずである。だが、こうしたことは理論的に明確にされることなく、ただたんにマネージメントにたいしてリーダーシップなる象徴的概念が漠然と没理論的に対置され、リーダーシップというキー概念に“打ち出の小槌”的装いがもたされている以上ではない。 総じて、マネージメントに対するリーダーシップの対置・強調は、問題意識、理論の対象領域やアプローチなどについての理論的・論理的な解明を没却し、あたかも政治エリートたちの選挙キャッチコピーを想起させるほどにファジーな印象操作に終始してしまっている。 ●「ビジョン」強調の陥穽 1988年に発表されたコッターのリーダーシップ論では、最も大切なのはリーダーの掲げるビジョンであるとされ、「変革」を市場分析から新しいリーダーシップの育成までの8段階に分けられている。とはいえ、それは理論性・論理性に乏しいし、寂しい内実が「ビジョン」というキー概念の乱発によって覆い隠されているにすぎない。 ただし、このビジョン概念の乱発というシンプルな手法によって補強されている変革的リーダーシップ論には、ある種の迫力がともなっている事実はわれわれも確認しておかなければならない。グダグダと観念的言辞を展開するのでなく、“ビジョン実現のための変革”をシンプルに・しかし繰り返し繰り返し力説することは、アメリカ国民の精神風土にマッチして多くの人びとを鼓舞したであろうことは想像に難くない。スローガン的ともいえるシンプルさであるにもかかわらず、というよりもそれゆえにこそ、それは人びとに浸透していった。この理論はアメリカ経済にそれなりの“成果”をもたらしたこともまた確かなことであり、その事実が、いっそうこの理論に“箔”をつけることにもなった。 だが、ビジョンとはいったい何か? “将来実現される理想像や目標”のようなものである。今現在われわれが何をいかになすべきかの指針とは異なる。この指針にもとづく実践によって生み出されるであろう結果を想定し、これを指針の次元にもぐりこませた。これこそがビジョンと称するものの本質である。「ビジョン」の美辞麗句の連呼によって、実践と理論(指針)の主体的解明の没却がかろうじて隠蔽されているにすぎない。 ティシーの場合にはその主張において(リーダーシップ エンジン論)、めまぐるしく変化してやまない時代において組織がスピーディーに動くにはどうすれば良いかを切迫感をもって究明しようとした。その結果組織の各階層に適切かつ迅速に意思決定ができる存在が必要だという考えに至り、課題を実現するために担い手にたいしてどのようにかかわるのかについて4つの領域を設定し担い手を育成すべきだとティシーは論じた。つまり- ・アイデア:事業に付加価値を与える明確なアイデアを持つ ・価値観:組織に根付かせる厳格な価値観を持つ ・エネルギー:迅速に行動するためのエネルギーを持ち、従業員にも決断力を与える ・エッジ:勇気を持って決断する力を育てる。 ここには、いかにティシーが大きな危機意識をみなぎらせているかが鮮明にみてとれる。また、われわれの周辺にここまで自信をもって主張できる人間は見当たらないと言えるほどの迫真力さえ感じられる。さらになによりも、目標に向けてガムシャラに人を駆り立てるというシンプルさからは一歩抜け出してはいる。 とはいえ、悪く言えば、その主張はなお号令もしくは扇動の範疇にとどまる。リーダーたるものが備えていなければならないものを項目的に強く突きつけているにすぎないからだ。むろん、こうした4項目の対象的な説明について言えば、それはそれで必要なものである。だが、リーダー(シップを発揮すべき者)がそれらをいかにして身につけるのかについては「自覚論」や組織的主体性にかんする理論をふまえて解明されなければならないだろう。われわれは、この自覚論的究明を基礎とし・それをふまえて、いかにして他の担い手を組織していくのかを主体的に究明する組織論を究明していくべきである。 さて、先にリーダーシップ論の歴史的推移をみたときに「行動理論」の論者の一部が「課題達成機能」と「人間関係・集団維持機能」という二側面からリーダーシップを定義づけているを紹介した。その内実の詳細はつまびらかではないとしても、この二側面を提示したことは誤りではない。人間が他の人間と関係をとり結びながら自然に働きかけるということは人間社会の本質的構造に根ざしているのだからである。ただ、これは萌芽的に視点を提示したという以上ではない。これを活かしながら、企業指針の主体的な解明の構造になかにリーダーシップにかんする解明を組み込んでいくことが現在のわれわれにとっての課題であり責務でもある。 一般的に企業指針は、①課題実現―彼らの好む概念を使いたければ、「ビジョン」をいかに実現するのかを主体的に解明するための指針 ―と ②そこにおいて誰がどのようにして・どのような組織構造をつくりだしながらそれを実現するのかを主体的に究明する指針によって構成されなければならない。企業指針そのもののなかに②の組織指針が含まれるのである。このことによってはじめて企業体の組織的とりくみが十全に可能となる。 ここにおいて、①②の指針解明という行為そのものにおいて、リーダーシップの発揮が実践的に問題となる。それとともに、解明される指針の内容として、誰が・いつ・どのように・誰にたいしてリーダーシップを発揮するのかなどにかかわる問題も主に②のなかに組み込まれることもありうる。このことによって企業のとりくみはより実践的・組織的になされることにもなるだろう。われわれがリーダーシップ論を創造していくためには、これらのことがらも必然的にとりあげることとなる。しかし、これらは変革的リーダーシップ論者の視野の外におかれてしまっている。 さらに言えば、リーダーシップ論を究明する場合にわれわれは、組織が③リーダーをいかに育てていくのか・そのためにリーダーシップを発揮しうる担い手をいかに育てていくのかについても理論究明していくことが不可欠となるだろう。それは組織を組織として確立していくことにかかわる問題である。 ●プラグマティズムの呪縛 実践について人一倍強調しながらも、もっぱら実践の結果ビジョンが実現したのかどうかに価値を見いだすにすぎない変革的リーダーシップ論のこの一面性はアメリカ出自の哲学であるプラグマティズムと無関係ではないだろう。いやそれこそが淵源になっているとさえいえる。実際的あるいは実践的な結果のみから行為の有意味・無意味もしくは有価値・無価値を判断するのがプラグマティズムであるのだからだ。 コロンブスのアメリカ大陸「発見」以降北アメリカ大陸に移住した移民たちは、未開の大地の開拓に不屈の精神で挑んだ。広大で肥沃な大地はとてつもない豊かさをたぐりよせる希望を増長させたであろうし、また豊富な地下資源は一攫千金を夢見る民の野望をかりたてたことだろう。とりわけ独立戦争後のアメリカの民を突き動かしたフロンティア精神においては、小難しくややこしい理屈や理論などは必要でもなく、ときには障害とさえ感覚・観念されたことだろう。このようにバラ色に描かれた未来=結果をひたすらに追い求めていくフロンティア精神をベースにしてプラグマティズムは生み出された。プラグマティズムの底流にある実践性はこのような歴史的・精神的根拠にもとづいているのであり、このことそのものはプラグマティズムの光明面であるといえる。 とはいえ、いくらプラグマティズムがその実践性を基盤としているといっても、それが実践の理論的な解明をしているとはかぎらない。実践をもっぱらその結果・効用からとらえ・その重要性を煽り立てるものでしかないからだ。今・ここで・われわれが・何を・いかに実践するのかの主体的な解明こそが必要なのである。 実践の価値をもっぱら結果から求めることの誤りは社会現象から見ても明らかである。現在いわゆる「忖度(そんたく)」という風潮が日本の社会問題となっている。 幼い頃から協調性を教え込まれる日本人においては、“空気を読む”ということが慣わしとなっている。とりわけ優等生やエリートの多くがその傾向をより強く体現している。「彼らは優秀なわりに何ごとにも挑戦しようとせず、驚くほど保守的な姿勢を見せ」るとも言われている。なぜ挑戦しないのか? 結果として失敗することを恐れ、「失敗しないようなタスクばかり選ぶことに慣れ」るからである。それは、結果としてテストで100点ををとれば親からほめそやされる人生をおくってきたことの必然的な結果でもある。〔註4〕 こうした優等生やエリートが行政機構や国家機構の上層部に君臨し、政治エリートたちの意向を忖度して文書の隠蔽・改ざん・あげくのはてにはシュレッダー処分にまで手を染めている。結果にもっぱら価値を見いだし・結果において失敗することを怖れることの集大成がこの実状だとも言える。因果なものである。 プラグマティズムの洗礼を受け結果にもっぱら実践的価値を求めることの結果は、変革的リーダーシップ論者の意に反して、むしろ担い手の積極性を削ぎ、バネを奪ってしまう。期待されたこととは真逆の結果をもたらすことにわれわれは目を向けるべきである。 スポーツの世界でも同様である。選手が「結果こそがすべて」「結果を出さなければ意味がない」とコメントすることなどにも―成果主義的風潮やスポーツのビジネスライク化などとも結びついて―プラグマティズムの弊害が影を落としているのかもしれない。 われわれにとって重要なことは何か? 困難に果敢にチャレンジすること、実践の過程の苦労をいとわず・それに学びながら糧をつかみとること、結果における失敗は失敗で潔く認め・過程を多側面から振り返りながら教訓をつかみとること―そしてこれらを組織の実践として仲間どうしで共有し合うこと。こうした哲学的・倫理的な規範を根底に据えてとりくむことではないか。 〔Ⅴ〕当面のまとめ ここまでの考察によって得られた結果を要約しておこう。リーダーシップ論を展開するために必須不可欠なことは以下の諸点である。 (1)プラグマティズムの“実践性”に学びつつも、実践にかんする主体的な究明を根底に据えること。 (2)①企業課題を実現していくための指針と②それを実現していくための組織指針とを統一的に究明するという構造をおさえたうえで、そこにおいて必要に応じてリーダーシップの問題を組み込むこと。こうした問題にかんしてもリーダーシップ論は究明対象とすること。 (3)リーダー(シップを発揮しうる人材)を育成していくこと(③)は組織建設にかかわる問題であるが、それにかんしてもリーダーシップ論は究明対象とすること。 だが、こうした究明は多大な困難をともなうことは言うを俟たない。浅学の筆者にとってはなおのことそうである。現在的には、上記の骨組みを念頭におきながらリーダーシップにかんして現実的・実践的に問われることを中心として論じていくことに限定しておかなければならない。だが、それについては、別稿にゆずりたい。 〔註1〕 インターネット上で展開されている表現についても活用させていただいた。 〔註2〕 イギリスのリーダーシップ論の権威とされるジョン・アデアは「リーダーシップは偉人にのみ先天的に与えられるものではなく、後天的に見につけることができるスキルだ」と述べている。 〔註3〕 この条件として、「環境要因」(「タスク構造)、「権限体系)、「ワークグループ))と「部下の要因」(「自立性)、「経験」、「能力」)があげられている。 〔註4〕 中野信子「現代ビジネス」2020年3月1日配信。 伝 健 (でん たけし) PR |
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