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2020 03,19 13:47 |
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〔はじめに〕 「リーダーシップ」という言葉は、ごく自然に使われている。「あの人のリーダーシップはすごい」とかと。また、とりたててその言葉の意味内容に難しさがあるわけでもない。けれども“言うは易く、行うは難し”である。実践場面においてリーダーシップを発揮することがどれほど難しいか。日々われわれはそのことを痛感させられている。 今われわれは福祉の仕事に日々とりくんでおり、直面している困難は数限りない。なかでもこのリーダーシップにかかわる問題は最難関であると言えるかもしれない。例えば、リーダー的地位にある職員でも十分にリーダーシップを発揮できている職員はけっして多いとは言えないし、できることならばリーダーシップをとる必要のない職務にとどめたいと考える職員も存在する。これらの事実にそのことは如実に示されている。 リーダーシップとは何であるのか? いかにしてリーダーシップを発揮するのか? どのようにリーダーを育成していくのか? われわれ自身が所属し・みずからつくりあげている組織の質を高め・とりくみのレベルアップをはかっていくためにどうするのか? あくまでも、このすぐれて実践的な問題として、以下リーダーシップについて考えを深めていきたい。これがこの小稿の主旨である。 〔Ⅰ〕リーダーシップとは? まず、リーダーシップとは何かということにかんしては、さまざまな人物がいろいろに定義している。 <ⅰ>「リーダーシップとは、組織●の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に確立する■ことである。リーダーとは目標を定め、優先順位を決め、基準を定め、それを維持する■者である。」(ドラッガー『プロフェッショナルの条件』) <ⅱ>リーダーシップとは、「ビジョン◎を明確にして組織●の力を最大化し、目標達成■に向けて成果を出していく▲能力。」 <ⅲ>「リーダーシップとは…組織を率いる能力…目標■を設定して組織をその方向へ導いていく●能力。」 <ⅳ>「リーダーシップとは、一定の目標◎を達成するために、個人あるいは集団をその方向に行動づけるための影響力の行使◎。」 <ⅴ>「共通の仕事や課題を達成するために、他人の協力を得る◎ことができる社会的な影響力◎。」 <ⅵ>「リーダーシップとは信頼感で部下を動かして◎、目標■を達成する行動である。」 <ⅶ>「(リーダーシップとは)ついてくるひとがいること◎。」(金井壽宏『リーダーシップ入門』) 〔註1〕 〔Ⅱ〕キー概念 上記の諸規定を参照してわれわれなりの規定を導いていこう。そのうえで必須不可欠な概念がある。<目標><実践><組織><関係>である。 (1) まずもって第一に確認すべきは、「 ■印 」にみられるように、われわれが<目標>をもってことにのぞむということ、また「 ▲印 」つまりこの<目標>を実現していくために<実践>するという点にある。リーダーシップとは、まずは実践にかかわる概念である。リーダーシップの発揮そのものが実践であるという意味においても、またこのリーダーシップの発揮を通じて目標を有効に実現するための実践をくりひろげていくのだという意味においても。 (2) では、その実践は個々人が個々にくりひろげるそれを指すのかと言えば、そうではない。「 ●印 」にあるように<組織>の実践にかかわることである。組織実践において発揮されるものがリーダーシップであるということが第二に確認したいことがらである。べつに定款もあり組織形態もしっかりした組織だけを念頭におく必要はない。集団とかグループとかを想定してかまわない。組織と表現する場合でも、協働作業をする現場のチームにおいても問題となるし、法人レベルの組織づくりにおいても問題となる。 (3) また、組織といっても、当然のことながら、この組織における担い手と担い手との関係という要素もある。このことを第三に確認したい。「 ◎印 」にあるように、組織のなかである者がリーダーシップを発揮して他の者も行動するという<関係>があり、そのなかでリーダーシップは発揮されるということをおさえよう。リーダーシップとは関係概念である。 このようにとらえると、リーダーシップとは、[組織なり・集団なり・グループなりにおいて/その目的・目標を実現する実践において、それを実現するために/ある担い手が他の担い手とのあいだで発揮する指導的役割もしくはその能力] と規定して良いと考える。 ここで、「役割」とか「能力」とかと表現した。「…ship」という接尾語は、世の辞書によれば、1「状態・性質」、2「資格・地位・役職」、3「能力・技能」、4「関係」、5「集団・層」、6「性質・状態を具体化したもの」、7「…の地位・資格をもった人」という意味内容を指すとのことなので、上記の規定表現は許容されるのではないかと思われる。また、ここで4「関係」とされていることは注目されるべきことであり、上述(3)の主張の妥当性が示されている。 〔Ⅲ〕リーダーシップ論の歴史的推移 さて、こうしたおおづかみな把握を前提として、これまでリーダーシップについて先人たちがどのように論じてきたのかを振りかえっておこう。 リーダーシップ論はおよそ1940年代あたりからアメリカを中心として活発に論議されてきたと言われているが、それは、歴史の進展とともに変化する時どきの時代的・社会的背景によってさまざまな変遷をたどってきた。概括すれば、それは以下のような歴史であったといえる。 (ⅰ) 1940年代の「特性理論」…リーダーは生まれながらにして持っている特性によってリーダーシップを発揮するという基本的な把握にたって、リーダーと非リーダーとの特性の違いを究明する理論。たとえば、大英帝国の歴史家・評論家のトーマス・カーライルは「リーダーシップ偉人説」の中で、「優れた偉人のみがリーダーになることができる」と説いたと伝えられている。 (ⅱ) 1940年代~60年代の「行動理論」…上記の特性理論を否定し、「リーダーシップは天性のものではなく、行動によって発揮される」、リーダーとは初めから持っている素質ではなく、行動によってつくられていくという考え方を打ち出した。〔註2〕 本稿の筆者の理解では、この論説は三点の意義をもっている。①理論タイトル通りリーダーシップを行動=実践における問題として据えたこと。②いかにしてリーダーを育てるのかという実践的アプローチをしていること。③この論を唱える一部の論者が、「課題達成機能」と「人間関係・集団維持機能」という二側面からリーダーシップを定義づけていること。 ここで①のように、それまでのリーダーシップ=生まれながらの特性という把握を否定したことは、意義あることであり、このことによって後天的にリーダーシップを身につけることができるという地に足をつけた究明が可能となった。けれども、先天的か後天的かという究明は多くの科学を動員して深めていく問題であってそれほど単純なものではない。 それはともかくとして、このリーダーシップが後天的に身につくという側面を明確にしたことは意義あることであるし、またそのことによって②のようなアプローチもまた可能となったといえる。第二次対戦後、軍隊においても、経済界においても、政治エリートの世界においても、あらゆる分野でリーダーを育成する現実的必要性が高まったことを背景としてこうした理論が導き出されたともいえる。だがしかし、この②の内容は、優れたリーダーの行動を非リーダーが模倣するという次元に甘んじている。 ③についても、組織・集団・グループにおける「課題」を、そこにおける「人間関係」を通じて実現するという基本的な枠組みがつくりあげられたことは、リーダーシップ論を展開していくための土俵をしつらえたという意義をもっている。しかしながら、その内容はきわめて図式的な内容に堕してしまっている。 (ⅲ) 1960年代~80年代の「条件適合理論」…行動理論の図式主義ともいえる単純さを克服し、リーダーシップの多種のあり方を追究しようとしたのが、「条件適合理論」である。それは、目まぐるしく変化していく時代において、リーダーのあり方を画一的に定義づけすることは不可能であり、逆に「全ての人が、状況によってはリーダーシップを発揮できる」とする理論であった。「課題達成」を据え置く点は行動理論と同様であるとしても、この目標(ゴール)に到着するためにとるべき道筋(パス)としてのリーダーシップを―「内的および外的環境の条件」への適合によって―多様なものとして理解する。およそこのような理論であったと考えられる。〔註3〕 行動理論の単純性をこのようなかたちで複合的に捉えるという意図にそれはもとづいている。とはいえ、ここでも、図式的にリーダー行動の類型が列挙されているにすぎない。 (ⅳ) (ⅲ)と重なる年代のカリスマ的リーダーシップ理論…1970年代以降に打ち出されたもので、上司が部下の指針となるビジョンを掲げ、部下の模範となり、現状を的確に見極め、モチベーションをアップさせるような態度や言動を実行し、従来の形式にとらわれない発想や行動で組織を導く超人的な力を持つリーダーを讃美する理論である。 戦後から1960年代まで続いたアメリカ経済の好調が、70年代に入り安定から緩やかな下降線をたどり、ついに1972年オイルショックによりGDP成長率は低下し、失業率もまた上昇していった。こうした時代状況を背景としてそれは打ち出されたのだといえる。それは、ビジョンを強調したリーダーの強い指導力を強調したという積極的な側面をもちながらも、他面その裏面では「超人的リーダー」なるものをキー概念とすることによってリーダーシップ論の歴史的後退をもたらしという側面ももちあわせている。 (ⅴ) 1980年代~現代の「コンセプト理論」…上記の「条件適合理論」をベースとし、カリスマ的リーダーシップ論におけるビジョンの強調を引き継ぎながらも、超人的リーダーではなく、広く世に存在する上司を部下との関係においてとりあげることをベースとしてビジョンの力を強調した論説がこれであったと言って良い。会社組織における一般的な関係をベースとすることによってリーダーシップのより多種なパターンを研究しようと志したのが「コンセプト理論」であるといえる。それゆえこの理論はそれなりに社会に浸透していった。そしてこの中心に1980年代に大きな潮流となってきた「変革的リーダーシップ論」が位置づく。主にこの理論はビジネス界において研究されてきたものであるが、現在ではスポーツ界などでも小さからぬ脚光を浴びている。とりわけチームスポーツにおいては、そのリーダーのあり方について一石を投じている。例えば、ジャパン・ラグビーにおけるリーダーシップのあり方にたいしても大きな影響を与えてもいる。 この「変革的リーダーシップ論」かんしては、「リーダーシップ論」のジョン・P・コッターと「現状変革型リーダー論」のノール・M・ティシーが代表的である。この論説についてはやや立ち入って以下で検討しておきたい。この論説が、リーダーシップ論の歴史的変遷を集約しており、この理論分野における代表的な地位を占めているからである。 PR |
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2020 03,18 13:47 |
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〔Ⅳ〕変革的リーダーシップ論…その光と影 (a)コッターは、①長年テーマとされてきた「課題達成」のために鍵となるのが「リーダーの掲げるビジョン」であるとし、「変革を実現する8段階」なるものを提唱した。②また、経営において従来重視されてきたマネージメントに対置するかたちでリーダーシップを位置づけた。③さらに、変革を担うリーダーとしての能力としてコミュニケーションにも重点をおいた「対人態度」と「高いエネルギーレベル」にも触れている。④最後に、注目すべきこととして、新しいリーダー(シップ)の育成という領域についても触れている。この①②を検討することがこの項での核心となるだろう。 (b)ティシーは、コッターのこの①ビジョンのキー概念化は踏襲しつつ、また②リーダーシップをマネージメントに対置することも踏襲している。しかしティシーの功労は、コッターが萌芽的にとりあげたリーダー(シップ)の育成についても「リーダーシップ・エンジン」論として一歩踏み込んだ展開をしている点にあるのではないだろうか。この項ではこの点についても―コッターの③④と関連づけながら―触れておきたい。 ●変革的リーダーシップ論登場の背景 前項に上記したように、リーダーシップ論が変遷してきことは、当然にも、時代的・社会的背景をもつ、というよりもある時代的・社会的要請によってその変遷はもたらされてきた。リーダーシップ先天性論の否定がその最たるものであるし、そして変革的リーダーシップ論が登場したこともまた、けっしてその例外ではない。企業をとりまく環境がめまぐるしく変化し日々荒波のように難題がアメリカ経済を襲ったことがそれである。 1980年代「JAPAN as NO1」ともてはやされた時代に、その対比として、厳しい国際競争に直面しアメリカと要請経済が低迷し行き先が見えない閉塞感に襲われているなかで、起死回生の期待をもってこの変革的リーダーシップ論は提唱され、80年代後半から90年代後半にかけて一世を風靡し、今なおその小さからぬ影響力を保持しているわけである。 こうした背景からして当然のように、その旗印は「変革」であるとされた。経済活動がいちじるしくグローバル化しかつスピードアップし、市場の環境変化・複雑化も増大し、情報の氾濫ともいえる状況も進展する…こうした生き馬の目を抜くような状況のなかで、スピーディーな企業判断と対処がシビアに問われた多くのアメリカ企業体において、これらを十全に成就していくためにどうすれば良いのか。ほんの一部の幹部がスタティックに経営管理=マネージメントを進めれば事足れりという時代はとうの昔に過ぎ去り、また一部のスタッフがリーダーシップを発揮すれば無事に過ごせるという時代状況ではまったくなくなった。企業体やその構成部署をひとりのリーダーが束ねていくことが困難となり、企業体のありとあらゆる層が、ありとあらゆる担い手がそのことを求められる状況になったということである。 ●マネージメントへのリーダーシップ対置の虚妄 コッターにせよティシーにせよ、リーダーシップをみずからの理論のキー概念とし、それをマネージメントに対置し・前者の優位性と重要性を力説している。だがその内実は空回りしている。 まずもって理論の対象領域としてみてみよう。マネージメントとは一般的には管理を指しさまざまな領域を対象としてもつが、彼らが論じるそれは企業管理(主には)経営管理にかかわるものである。他方、リーダーシップもまた一般的には多くの領域を対象としてもつが、彼らが論じるそれは企業実践におけるそれを指す。だとしても、両者の対象領域は必ずしも同じではない。マネージメントが主に経営管理を対象領域とするのにたいして、リーダーシップは、企業運営も、経営も、人材育成も、さらには種々のイベントさえをも対象とするのだからである。それゆえ、常識的に捉えるならば、両者をまったく同じ土俵で対比すること自体に設定の無理が生じている。 むろん彼らは、リーダーシップをマネージメントに重なる対象領域において取り扱うという無自覚的な・あるいはなかば意図的な前提において立論しているわけだが、仮にそうであったとしても大きな問題がはらまれている。周知のように、変革的リーダーシップ論が跋扈する以前のアメリカ経済においてはマネージメント概念がキー(鍵)とされてきたが、ここにおいては、企業体がそれをとりまく環境にうまく適応し既存の企業システムの統制を維持することが主眼とされてきた。というよりも、それで事足りた。 ところが、激動の時代に突入した段階では、変革的リーダーシップ論者たちは、より実践的=「変革」的に組織をつくり・環境に立ち向かわなければ、とても太刀打ちできないと感覚し、そのことを主眼とした、ということなのである。そこでは守旧的なマネージメントにたいして、変革的なリーダーシップというシェーマ(図式)が描かれていたが、いわばそれは、ひとえに企業運営理念・運営スタイルにおける否定として位置づくもののはずである。だが、こうしたことは理論的に明確にされることなく、ただたんにマネージメントにたいしてリーダーシップなる象徴的概念が漠然と没理論的に対置され、リーダーシップというキー概念に“打ち出の小槌”的装いがもたされている以上ではない。 総じて、マネージメントに対するリーダーシップの対置・強調は、問題意識、理論の対象領域やアプローチなどについての理論的・論理的な解明を没却し、あたかも政治エリートたちの選挙キャッチコピーを想起させるほどにファジーな印象操作に終始してしまっている。 ●「ビジョン」強調の陥穽 1988年に発表されたコッターのリーダーシップ論では、最も大切なのはリーダーの掲げるビジョンであるとされ、「変革」を市場分析から新しいリーダーシップの育成までの8段階に分けられている。とはいえ、それは理論性・論理性に乏しいし、寂しい内実が「ビジョン」というキー概念の乱発によって覆い隠されているにすぎない。 ただし、このビジョン概念の乱発というシンプルな手法によって補強されている変革的リーダーシップ論には、ある種の迫力がともなっている事実はわれわれも確認しておかなければならない。グダグダと観念的言辞を展開するのでなく、“ビジョン実現のための変革”をシンプルに・しかし繰り返し繰り返し力説することは、アメリカ国民の精神風土にマッチして多くの人びとを鼓舞したであろうことは想像に難くない。スローガン的ともいえるシンプルさであるにもかかわらず、というよりもそれゆえにこそ、それは人びとに浸透していった。この理論はアメリカ経済にそれなりの“成果”をもたらしたこともまた確かなことであり、その事実が、いっそうこの理論に“箔”をつけることにもなった。 だが、ビジョンとはいったい何か? “将来実現される理想像や目標”のようなものである。今現在われわれが何をいかになすべきかの指針とは異なる。この指針にもとづく実践によって生み出されるであろう結果を想定し、これを指針の次元にもぐりこませた。これこそがビジョンと称するものの本質である。「ビジョン」の美辞麗句の連呼によって、実践と理論(指針)の主体的解明の没却がかろうじて隠蔽されているにすぎない。 ティシーの場合にはその主張において(リーダーシップ エンジン論)、めまぐるしく変化してやまない時代において組織がスピーディーに動くにはどうすれば良いかを切迫感をもって究明しようとした。その結果組織の各階層に適切かつ迅速に意思決定ができる存在が必要だという考えに至り、課題を実現するために担い手にたいしてどのようにかかわるのかについて4つの領域を設定し担い手を育成すべきだとティシーは論じた。つまり- ・アイデア:事業に付加価値を与える明確なアイデアを持つ ・価値観:組織に根付かせる厳格な価値観を持つ ・エネルギー:迅速に行動するためのエネルギーを持ち、従業員にも決断力を与える ・エッジ:勇気を持って決断する力を育てる。 ここには、いかにティシーが大きな危機意識をみなぎらせているかが鮮明にみてとれる。また、われわれの周辺にここまで自信をもって主張できる人間は見当たらないと言えるほどの迫真力さえ感じられる。さらになによりも、目標に向けてガムシャラに人を駆り立てるというシンプルさからは一歩抜け出してはいる。 とはいえ、悪く言えば、その主張はなお号令もしくは扇動の範疇にとどまる。リーダーたるものが備えていなければならないものを項目的に強く突きつけているにすぎないからだ。むろん、こうした4項目の対象的な説明について言えば、それはそれで必要なものである。だが、リーダー(シップを発揮すべき者)がそれらをいかにして身につけるのかについては「自覚論」や組織的主体性にかんする理論をふまえて解明されなければならないだろう。われわれは、この自覚論的究明を基礎とし・それをふまえて、いかにして他の担い手を組織していくのかを主体的に究明する組織論を究明していくべきである。 さて、先にリーダーシップ論の歴史的推移をみたときに「行動理論」の論者の一部が「課題達成機能」と「人間関係・集団維持機能」という二側面からリーダーシップを定義づけているを紹介した。その内実の詳細はつまびらかではないとしても、この二側面を提示したことは誤りではない。人間が他の人間と関係をとり結びながら自然に働きかけるということは人間社会の本質的構造に根ざしているのだからである。ただ、これは萌芽的に視点を提示したという以上ではない。これを活かしながら、企業指針の主体的な解明の構造になかにリーダーシップにかんする解明を組み込んでいくことが現在のわれわれにとっての課題であり責務でもある。 一般的に企業指針は、①課題実現―彼らの好む概念を使いたければ、「ビジョン」をいかに実現するのかを主体的に解明するための指針 ―と ②そこにおいて誰がどのようにして・どのような組織構造をつくりだしながらそれを実現するのかを主体的に究明する指針によって構成されなければならない。企業指針そのもののなかに②の組織指針が含まれるのである。このことによってはじめて企業体の組織的とりくみが十全に可能となる。 ここにおいて、①②の指針解明という行為そのものにおいて、リーダーシップの発揮が実践的に問題となる。それとともに、解明される指針の内容として、誰が・いつ・どのように・誰にたいしてリーダーシップを発揮するのかなどにかかわる問題も主に②のなかに組み込まれることもありうる。このことによって企業のとりくみはより実践的・組織的になされることにもなるだろう。われわれがリーダーシップ論を創造していくためには、これらのことがらも必然的にとりあげることとなる。しかし、これらは変革的リーダーシップ論者の視野の外におかれてしまっている。 さらに言えば、リーダーシップ論を究明する場合にわれわれは、組織が③リーダーをいかに育てていくのか・そのためにリーダーシップを発揮しうる担い手をいかに育てていくのかについても理論究明していくことが不可欠となるだろう。それは組織を組織として確立していくことにかかわる問題である。 ●プラグマティズムの呪縛 実践について人一倍強調しながらも、もっぱら実践の結果ビジョンが実現したのかどうかに価値を見いだすにすぎない変革的リーダーシップ論のこの一面性はアメリカ出自の哲学であるプラグマティズムと無関係ではないだろう。いやそれこそが淵源になっているとさえいえる。実際的あるいは実践的な結果のみから行為の有意味・無意味もしくは有価値・無価値を判断するのがプラグマティズムであるのだからだ。 コロンブスのアメリカ大陸「発見」以降北アメリカ大陸に移住した移民たちは、未開の大地の開拓に不屈の精神で挑んだ。広大で肥沃な大地はとてつもない豊かさをたぐりよせる希望を増長させたであろうし、また豊富な地下資源は一攫千金を夢見る民の野望をかりたてたことだろう。とりわけ独立戦争後のアメリカの民を突き動かしたフロンティア精神においては、小難しくややこしい理屈や理論などは必要でもなく、ときには障害とさえ感覚・観念されたことだろう。このようにバラ色に描かれた未来=結果をひたすらに追い求めていくフロンティア精神をベースにしてプラグマティズムは生み出された。プラグマティズムの底流にある実践性はこのような歴史的・精神的根拠にもとづいているのであり、このことそのものはプラグマティズムの光明面であるといえる。 とはいえ、いくらプラグマティズムがその実践性を基盤としているといっても、それが実践の理論的な解明をしているとはかぎらない。実践をもっぱらその結果・効用からとらえ・その重要性を煽り立てるものでしかないからだ。今・ここで・われわれが・何を・いかに実践するのかの主体的な解明こそが必要なのである。 実践の価値をもっぱら結果から求めることの誤りは社会現象から見ても明らかである。現在いわゆる「忖度(そんたく)」という風潮が日本の社会問題となっている。 幼い頃から協調性を教え込まれる日本人においては、“空気を読む”ということが慣わしとなっている。とりわけ優等生やエリートの多くがその傾向をより強く体現している。「彼らは優秀なわりに何ごとにも挑戦しようとせず、驚くほど保守的な姿勢を見せ」るとも言われている。なぜ挑戦しないのか? 結果として失敗することを恐れ、「失敗しないようなタスクばかり選ぶことに慣れ」るからである。それは、結果としてテストで100点ををとれば親からほめそやされる人生をおくってきたことの必然的な結果でもある。〔註4〕 こうした優等生やエリートが行政機構や国家機構の上層部に君臨し、政治エリートたちの意向を忖度して文書の隠蔽・改ざん・あげくのはてにはシュレッダー処分にまで手を染めている。結果にもっぱら価値を見いだし・結果において失敗することを怖れることの集大成がこの実状だとも言える。因果なものである。 プラグマティズムの洗礼を受け結果にもっぱら実践的価値を求めることの結果は、変革的リーダーシップ論者の意に反して、むしろ担い手の積極性を削ぎ、バネを奪ってしまう。期待されたこととは真逆の結果をもたらすことにわれわれは目を向けるべきである。 スポーツの世界でも同様である。選手が「結果こそがすべて」「結果を出さなければ意味がない」とコメントすることなどにも―成果主義的風潮やスポーツのビジネスライク化などとも結びついて―プラグマティズムの弊害が影を落としているのかもしれない。 われわれにとって重要なことは何か? 困難に果敢にチャレンジすること、実践の過程の苦労をいとわず・それに学びながら糧をつかみとること、結果における失敗は失敗で潔く認め・過程を多側面から振り返りながら教訓をつかみとること―そしてこれらを組織の実践として仲間どうしで共有し合うこと。こうした哲学的・倫理的な規範を根底に据えてとりくむことではないか。 〔Ⅴ〕当面のまとめ ここまでの考察によって得られた結果を要約しておこう。リーダーシップ論を展開するために必須不可欠なことは以下の諸点である。 (1)プラグマティズムの“実践性”に学びつつも、実践にかんする主体的な究明を根底に据えること。 (2)①企業課題を実現していくための指針と②それを実現していくための組織指針とを統一的に究明するという構造をおさえたうえで、そこにおいて必要に応じてリーダーシップの問題を組み込むこと。こうした問題にかんしてもリーダーシップ論は究明対象とすること。 (3)リーダー(シップを発揮しうる人材)を育成していくこと(③)は組織建設にかかわる問題であるが、それにかんしてもリーダーシップ論は究明対象とすること。 だが、こうした究明は多大な困難をともなうことは言うを俟たない。浅学の筆者にとってはなおのことそうである。現在的には、上記の骨組みを念頭におきながらリーダーシップにかんして現実的・実践的に問われることを中心として論じていくことに限定しておかなければならない。だが、それについては、別稿にゆずりたい。 〔註1〕 インターネット上で展開されている表現についても活用させていただいた。 〔註2〕 イギリスのリーダーシップ論の権威とされるジョン・アデアは「リーダーシップは偉人にのみ先天的に与えられるものではなく、後天的に見につけることができるスキルだ」と述べている。 〔註3〕 この条件として、「環境要因」(「タスク構造)、「権限体系)、「ワークグループ))と「部下の要因」(「自立性)、「経験」、「能力」)があげられている。 〔註4〕 中野信子「現代ビジネス」2020年3月1日配信。 伝 健 (でん たけし) |
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2020 03,17 13:46 |
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〔A〕リーダーシップを発揮する場面 ごく当たり前のことであるが、リーダーシップが発揮される場面は何かと問えば、組織のとりくみのすべてである。ただ、あえて整理すれば以下のようになる。 [ⅰ]法人業務課題実現のための方針解明 [ⅱ]上記法人業務課題実現のための組織方針解明 [ⅲ]上記方針および組織方針にもとづく実践 [ⅳ]業務組織・法人組織建設の指針解明 [ⅴ]上記組織建設指針にもとづく実践 良く謳われている「PDCAサイクル」[Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)]のサイクルを活用するならば、[ⅲ][ⅴ]を評価し改善するというサイクルも問題となるが、便宜上ここでは略したい。 それぞれのとりくみにおいて、組織構成員がリーダーシップを発揮していく。その発揮の構造については[ⅰ][ⅱ]のなかに―とりわけ[ⅱ]のなかに―方針として組み込まれることもある。そして[ⅳ][ⅴ]はリーダーを育成し、それをデコとして組織を組織として創りあげていくための指針と実践という性格をもっている。 具体的には、各段階でどのようなリーダー(シップ)にまつわる活動を繰りひろげるのか? [ⅰ]では、たとえばわが法人の災害対策にとりくむにあたっての指針を解明し内外に宣明するわけだが、恒常的な災害対策グループを法人に設置し、またときどきの事態に対応して災害対策本部を設置する…というような指針をも組み込むことになる。 [ⅱ]では、その災害対策グループや災害対策本部の構成員や責任者を誰が担うのか、そのために誰がリーダーシップを発揮してどのように彼らを組織するのか、という構造の指針を解明する。 [ⅲ]では、むろん上記した災害対策グループや災害対策本部が中心となり、その担い手が主にリーダーシップをとりながら・他の職員らを組織しながら災害活動にとりくんでいく。 [ⅳ]では、災害対策グループや災害対策本部の担い手のなかに[ⅲ]の組織的実践を通じてどのような変化が生み出されているのかを見極めながら彼らを強化していく。また、彼らに組織され災害対策活動を担った担い手を災害対策グループ・災害対策本部の担い手へと高めていく…そのための指針を解明し、この指針にのっとって [ⅴ]において実践する。 さて、ここでわれわれが是非とも心がけたいことがある。 第一に、リーダーシップを、ある指導的なポストに固有のもの・特化したものとして理解してはならない、ということである。われわれの組織の現状をみるならば、どうしてもリーダーに指導性の発揮を委ねてしまう傾向が根強いことは否みがたい。<指示するする人=指導的メンバー>←→<指示をうける人=被指導的メンバー>という関係の固定化である。リーダーシップを発揮するのは前者(リーダー)であって、後者はもっぱらフォロワーであるというように関係を固定化する傾向である。この傾向は被指導的メンバーに多く見られることであるが、指導的メンバーのなかにも見られないわけではない。 むろんリーダーシップは多くの場面で指導的メンバーが発揮するわけだが、被指導的メンバーもまた種々の条件の下では(たとえば、みずからの主張に自信がある、組織の現状が無指導状態や混乱状態にあると思えるなどの場合)おおいにリーダーシップを発揮すべきである。そのさい、言動は指導・被指導関係をふまえてなされるべきであるし、提案や意見の発信は組織の討論ルールにのっとらなければならないことも当然である。こうした事柄に留意しつつ、組織の前進にとって何をなすべきか、組織を前に進めるためには自分が何をすべきか。このことをわれわれの立ち振る舞い・言動の基準的理念として、ひとつ頑張ってみようではないか。 このように述べても、被指導的メンバーがリーダーシップを発揮するさいにまるで“清水の舞台から飛び降りる”ほどの決意をふりしぼらないと実現しないのであれば、それは決して望ましいことではない。それを避けるためには、過度なプレッシャーを避けることができるような組織的な保障を皆で創りあげていくべきである。たとえば、会議や打ち合わせなどにおいて多くの職員が自由闊達に意見を表明し、やがてリーダーシップを発揮しうる意欲が湧き出るような保障を、である。こうした努力を経てはじめて、広く多くのメンバーがリーダーシップを発揮することができる風習も形成されるだろう。こうした組織的な保障づくりをしていくことが重要である。 また、課題を実現していくために、例としてあげたように「…グループ」とか「…本部」とか必要に応じた時どきのチームづくりなど組織的構造をつくりあげる工夫にも創意工夫を凝らしていこう。そうすることで、一部の指導層だけでなく、多くの担い手が参与するかたちでのとりくみが可能となり、このことがリーダーシップの多層的・多重的な発揮が組織として可能となることだろう。これらの組織的保障づくり・組織的構造の創造を積極的に行なっていくことが、第二のことがらである。 〔B〕リーダーシップ発揮を導く諸能力 では、リーダーシップを十全に発揮するためにはどのような諸能力が重要となるのだろうか? ドラッガーが『プロフェッショナルの条件』でリーダーシップをとることができる人の要件について触れていることなどをもヒントとして、種々の研修やレクチャーで“リーダーシップ能力のある人の特徴”とか“リーダーシップを発揮できる人が持つ要素”とか“優れたリーダーシップを発揮する人の特徴”とかが、様々な場面でとりあげられている。そこでは、典型的には以下の諸能力が列挙されている。 (1)明確なビジョンをもっている 「(5)誠実である」「(6)精神的に安定している」「(7)信頼されている」という三点については、受けとめの幅を広くしてしまうきらいがあり、共通の理解内容をつくるには限界があるとはいえる。けれどもすべての項目とも重要であり、参照すべきことばかりである。 とはいえ、これらがいみじくも“人”とタイトル表示されてしまっている点に小さからぬ問題がはらまれている。“個人としての個人”がもつべき諸能力と観念されてしまう落とし穴があるからある。もちろん、コトがリーダーシップにかかわる問題であるのだから、人と人との関係を論じるという前提までもが損なわれているわけではない。とはいうものの、組織と個人にかんする把握の歪みに規定されて、多くの場合実質的に“組織と切断された個人”と感覚・観念されているということである。 あくまでもわれわれは、リーダーシップを支える諸能力を、<組織の一員としての主体>がもつべき諸能力として理解していく必要があるだろう。たとえば筆者にとっては(1)~(4)はどうしても以下のように捉えたい。 (1)「明確なビジョンをもっている」…ビジョンなる概念が将来像を指示するだけのものであるという点はさしあたりふれないとしても、そのビジョンをたった一人でつくりだすわけではない。みずからの意見を他の組織成員のそれと練り合わせ、その結果組織のビジョンをつくりあげる。 ここでのキー概念は<組織的主体性>である。一般的には「組織と個人」や「全と個」というかたちで思索されることが多いが、この深淵な問題をわれわれも真剣に考えるべきである。われわれ一人ひとりは個別的主体性をもちながら組織に属している。これらの個別主体性が集まって組織的全体性がかたちづくられている。だから、われわれ一人ひとりは“裸の個人”ではないということである。あくまでもわれわれは組織の一員として実在している。このことは、他ならずわれわれのなかに組織的全体性が内在していなければならないということである。 こうした思索を深めることによってはじめて、リーダーシップを発揮する担い手の能力や資質を論じることが可能となる。この思索を欠如することによって、知らず識らずのうちにその担い手についての理解が実質上“個人としての個人”へと変質してしまう陥し穴があることをわれわれは肝に銘じなければならない。 〔C〕リーダーシップのスタイル 次に、リーダーシップのスタイルということについても触れておこう。興味深いことに、エモーショナル・インテリジェンス(EI:心の知性)の提唱者で、EQ=「心の知能指数」を体系化した心理学者ダニエル・ゴールマンが6つのリーダーシップスタイルを提唱し類型化を試みている。 ①ビジョンリーダーシップ ②コーチングリーダーシップ ③調整リーダーシップ ④仲良しリーダーシップ ⑤実力リーダーシップ これらのもののうちどれかひとつを最良のものとして選択することは不可能であるし、またそうすべきでもない。それらをあくまでも要素として捉え、状況に応じて、また自己の得手・不得手、向き・不向きや個性・経験・能力などをふまえて、採用すれば良いと考える。組織のとりきめとして画一的に定める必要もなく、各メンバーが自分なりのスタイルを確立していくことが重要である。 ただし、そうすることができるためにも、重要な前提の整備することが不可欠である。端的に言って、ここでの展開はリーダーシップをとる人間と他の人間との関係の有り様の類型まとめに終始してしまっている。そこには組織があるようでない。「仕事」と言われ「部下」と言われている以上、そこでは会社組織が前提とされているはずである。だが、会社組織であるならば、種々の部署などの組織機構もあり、組織会議も組織論議もあるはずである。ところがここではリーダーシップをとる担い手と他の人間しか登場しない。やはりここでも個人の算術的総和としての組織というものに堕してしまっている。それは、個人主義がとても進んだ社会の産物でしかないのだ。核心は、個人の努力に委ねることなく、リーダーシップを発揮しやすい組織的環境・組織的条件などの組織的保障を整備することにこそある。 そのうえで、①から⑥を鏡として、われわれのなかにみられる残念な例を確認しておくことも無意味ではないだろう。 [α] リーダーシップを発揮しようという意志は明確にあるが、どうしても課題を一人で抱え込んでしまう傾向。個別事業所トップに多い傾向。他の仲間の力を十分に引き出すことができないだけでなく、リーダーそのものに多大の負担とストレスがかかってしまう。この傾向がもっとも広く見受けられる。 [β] どうしても、リーダーシップを発揮することに諸般の事情でネガティブになってしまう傾向。全体として組織は停滞を余儀なくされ、ネガティブ雰囲気に覆われ、職員のグチやため口が横行することにもなる。 [γ] リーダーシップを発揮しようという意志はあるが、他の職員とのいわば「上下」関係を固定化ないしは助長してしまう傾向。リーダーシップの内実が“しきる”というものへとおとしめられ、いきおい他の職員の主体性が育まれず積極的なメンバーとして育成することがなかなかできなくなる。 |
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2020 03,16 13:46 |
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〔D〕 いかにしてみずからをリーダーへと高めるか わが組織の職員には、現在のおのれの現状にとどまることなく、是非ともみずからをリーダーへと高めていく努力をしてほしい。そのためには、上述したように種々のリーダーシップのスタイルを参照しながら、みずからの得手・不得手、向き・不向き、その他の特性などをふまえてリーダーシップを発揮しやすいみずからのスタイルを是非とも身につけてほしい。 そのために、いくつか留意点を追加しておきたい。 <a>観察し学ぶこと ジャパン・ラグビーの前ヘッドコーチであり、エディー・ジョーンズは、“指導者としての能力において重要なものは何ですか”と問われて、「まずは、すでに優れているリーダーを観察することです…他者から学ぶ、ということです。観察をして、いいリーダーから学びを得て、自分ではどうしていくのかを考えながら進めていくことです」と明快に言いきったとのことである。非常に興味深い。教育者としても有能であった氏の面目躍如である。まずは、身近にいる良きリーダーたちを観察し、そこから学ぶことを心がけてみよう。 <b>自分のスタイルへと高めること ジョーンズ氏は、先の引用に続けてこうも述べている。「他者から学びながらも自分のやり方で進めていかないと、他者をリードしていくことはできません。人にはそれぞれ違うやり方がありますから」と。これも含蓄ある言葉である。お手本となるリーダー像を参考に、自身がどうしたいのかについても考えながらみずからのカラーを打ち出していく。裏を返せば、たんなる他人の真似事だけでは真のリーダーにはなり得ないということだ。 ●「守破離」 ここで、まず日本に伝わる「守破離」という修行の段階規定に思いを馳せることも価値あることだろう。「守破離」とは、千利休の茶道の教えから始まり、伝統芸能・芸術や武道などに広く伝わる修行の精神にも貫かれた。 ・「守」…指導者の教えを忠実に守り確実に身につける。 ・「破」…指導者の教えを破り・自らの創意工夫をほどこす。 ・「離」…指導者の教えの良いものを取り入れ、自ら独自の型を創りあげる。 なんと気高く品格にあふれていることか。日本に生まれたものとしてちょっぴり誇りとし敬愛しないわけにはいかない。より良きリーダーの指導を観察し学びとり・みずからの創意工夫を交え・独自のリーダーシップのあり方を創りあげることが重要だということである。 ●「アウフヘーベン」 これと重なるものとして、ドイツ哲学に目を向けることも無意味ではないだろう。aufheben(アウフヘーベン)というドイツ観念論哲学の重要概念がそれである。この動詞は、ドイツ観念論哲学を最終的に構築したヘーゲルがその哲学において駆使した最重要概念のひとつとして知れわたっているが、「止揚」や「揚棄」と和訳されるこの概念には三つの意味が含まれている。①「解消する」・②「高める」・③「保存する」という三つである。換言すれば、哲学的な概念としての「アウフヘーベン」の主要な意味内容は、あるものを否定する(解消する)と同時に、それをより高次の段階において生かす(保存する)ことによって肯定側と否定側の両者の概念を統一する(高める)ということにあると考えられる。〔註2〕 他者のリーダーシップを学び・否定し・生かし・統一するという意味において、この「アウフヘーベン」に示されるガイスト(精神)は、「守破離」に示される理論的精髄と重なるものであるだろう。 〔E〕 いかにしてリーダーを育てるのか 〔D〕ではみずからをどのようにしてリーダーへと高めていくのかについてふれた。次に、いかにしてリーダー(シップ)を育てるのかについて考えてみたい。 <a>リーダーは組織が創り出し・育てる 〔A〕で述べたように- ●[ⅰ]法人業務課題実現のための方針解明 [ⅱ]上記法人業務課題実現のための組織方針の解明 [ⅲ]上記方針および組織方針にもとづく実践 この[ⅰ]~[ⅲ]なかでリーダーシップの発揮にかかわる問題を組み込む。 ●[ⅳ]業務組織・法人組織の建設の指針の解明 [ⅴ]上記組織建設指針にもとづく実践 この[ⅳ][ⅴ]においては、業務のとりくみのプロセスで問われたことをヒントに、アプローチを変えて組織の 建設をすすめていく。独自の研修や個別論議などをつうじてそれはなされる。 …これが、われわれのリーダー育成の基本的な形式的構造である。 <b>機能主義を超えて 「[研究ノート]リーダーシップ論」(以下〔研究ノート〕と略す)で述べたとおり、変革的リーダーシップ論の代表者の一人であるティシーは、課題を実現するために担い手にたいしてどのようにかかわるのかについて4つの領域を設定し担い手を育成すべきだと論じた。つまり、アイデア・価値観・エネルギー・エッジの4つを。 この論述は担い手たちをどのように高めていくのかというすぐれて実践的な問題として提示されている。このことは何度繰り返し確認しても無意味ではない。だが、その内実は、担い手に“アイデア・価値観・エネルギーを持たせる”という性格のものであり、外部から注入するというものへとおとしめられている。極めつきは、「従業員にも決断力を与える」という考え方である。決断力を与えるとは?何と!決断とは本人の自覚にかかわるのであり、このことを没却したこの暴論は、「与える」という機能の目的物であるかのように自覚概念を歪める機能主義の産物である。先の外部注入的主張も同様である。われわれは、そのためには、リーダーシップを発揮しうる担い手を確立するために全力でとりくまなければならないが、この機能主義を打破して、あくまでも哲学的な基礎として自覚論・主体性論を据えおく必要がある。 <c>日本的風土をふまえたリーダー育成を 〔研究ノート〕と本稿を通じて、筆者なりに変革的リーダーシップ論の限界を確認してきた。変革的リーダーシップ論を超えて、われわれは、みずからの哲学(実践論・主体性論、自覚論)や組織論を確立し、この土台のうえに、みずからのリーダーシップ論を構築していく必要がある。だが、日本的な風土を無視して構築していくことは不可能である。 変革的リーダーシップを生み出したアメリカにおいては、時代に取り残されてしまう企業は大胆に変革すべきであり、組織として新しい考えや新しいやり方を受け入れることが“グッジョブ”として肯定される土壌が大きくできあがっていた。それは、むしろ刷新の英雄的行為としてもてはやされたほどである。 だが、日本ではそうはいかない。日本の社会は、経済においても・政治においても・文化においても、本質的には大きな変化を望まない風潮・風土があるからである。日本では現状維持が優先される。日本人の持つ伝統的な価値観として、自身が属する組織・集団・グループの協調性を大切にし・それを守ることを行動規範にしている気風が通底している。そしてそこでの既得権益、つまり「悪くない現状」を維持しようという意識さえもが強い傾向にある。 アメリカにおいては個人主義の徹底ゆえに組織が位置づきにくい。したがって、アメリカ生まれのリーダーシップ論の直接的な持ち込みは日本では根づきにくいし、種々の不全をひきおこすだろう。反面日本においては、おおづかみなもの言いではあるが、集団への帰属意識の強さや強調主義のゆえにそれに属する担い手の主体性の確立が弱い。こうした協調主義や変革的でなく現状肯定的な日本社会の特殊性をふまえつつ・日本人的美徳ともいえるものは守りつつ・さらにすすんでそのような日本的特殊性そのものにも良い変化をもたらすような追求が、多くの分野でのリーダー育成のさいにもめざされることが望ましいわけである。 では、そのために何に留意すべきか。 <ⅰ> 日常的な意志決定を重視する… これは、〔B〕「リーダーシップ発揮を導く諸能力」のなかにあった「(1)明確なビジョンをもっている」・「(2)決断力がある」にあたることがらでもある。些細と思われる業務遂行においても、他の仲間と論議しながら・みずからの意見をつくりあげるよう促していくことが重要である。「上司が言っているから」とか「意見の大勢がこうだから」とかの次元にとどめることなく、おのれ自身の意見・主張を明確につくりあげ表明していく。そのような努力を本人ができるよう周囲もかかわっていくこと。 <ⅱ> 行動に価値を見い出す組織をつくる… これは、同じく〔B〕にあった「(3)行動力がある」にあたる。また、「(2)決断力」が直接的に関係する。わが組織においては、行動力のある担い手を軽視しその意欲を喪失させることがあってはならない。組織のためを思って行動されたことについては、正しい評価が下されるべきであり、それができる組織にしていくということ。 <ⅲ> 組織のコンセンサスづくりに注力する… 組織成員個々の意見をつくりあげ・引き出しながら、それをつうじて組織としてのコンセンサスをしっかりとつくりあげること。このことによって課題実現の指針・それを実現するための組織指針などは“皆でつくった方針”としての内実をもつことができるだろう。 <ⅳ> 組織内の信頼関係を確たるものとする… これは、〔B〕にあった「(7)信頼されている」にあたる。だが、その反面「他の担い手を信頼する」を付け加えなければならないだろう。リーダーシップをとるメンバーが、連絡がとれない、つねに“上から目線になる”、フォロワーにやらせるばかりで自分では何もやらない、相談にのってくれない…というのでは他の仲間の信頼を得ることはできない。逆に、指示を受ける者も、与えられた指示を実行に移さない、責任を果たさないおのれをさしおいてリーダーへの陰口・ため口に時間とエネルギーをさく…というのではリーダーシップをとるメンバーからの信頼を得ることはできない。 <ⅴ> コミュニケーションが生命線 このように考えてくれば、上記のすべてにわたってコミュニケーションが生命線であることにわれわれは、あらためて気づかされる。種々の機構からなら組織構成をみれば、それはいわば「組織の筋骨系統」をなすが、それにたいしてコミュニケーションは「組織の循環系統」をなす。自由で闊達なコミュニケーションという血液循環が損なわれるならば、組織体は壊死にいたるということに思いを馳せる必要がある。〔B〕のなかの「(4)コミュニケーション能力が高い」をわれわれの視点から読み取るならばこうしたことである。リーダーシップを発揮する者においては、他のメンバーの気持ち―疑問や不安・危惧など―をしっかりと聴き取り、丁寧な意思一致をはかることが問われる。他面、他のメンバーにおいては、組織のとりくみにおのれが積極的に参与できるよう質問・意見・提言・具申などをどしどしと表明することが問われる。こうすることによってはじめて、エネルギッシュで活発な組織内論議が陽の目を見ることになるだろう。 〔註1〕 ヘーゲルの弁証法においては、 ・まず、テーゼ(These=定立)と呼ばれる論理的には妥当であると思われる一つの概念が措定されたうえで、 ・次に、テーゼと同等に論理的に妥当な概念であると思われるものの、それとは正反対の性質を持ち、テーゼを否定する要素を有すると考えられる別の概念がアンチテーゼ(Antithese=反定立)として措定され、 ・さらに、この互いに対立するが、論理的には同等に正しいと思われる互いに矛盾する二つの概念がアウフヘーベン(Aufheben)と呼ばれる思考の働きによって、両者の概念自体はいったん互いに否定されたうえで、より高次の段階において、それぞれの概念の本質が保存される形でジンテーゼ(Synthese=統合=止揚・揚棄)されていく。 これが、ヘーゲルの弁証法の論理展開の基本構造である。 〔註2〕 武市健人『ヘーゲル論理学の体系』などを参照。 〔註3〕 本文において、エディー・ジョーンズ氏の主張を複数紹介したが、実際教師もしていた経歴をもつ氏は、日本人ラグビー選手を見て“ 従順で真面目だが失敗を極端に避けようと躊躇する」と喝破し、日本人的風土をふまえた的確で秀逸な指導をしてきたことは記憶に新しい。 2020年3月9日 伝 健 (でん たけし) |
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2020 03,15 13:04 |
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1:研究の背景と目的
高齢化に伴い在宅医療は大きく変化し、在院日数の短縮化が進み、在宅療養に移行する例は多い。そして住み慣れた家で最期を迎えたいと希望する高齢者も増えている。その実現のためには、在宅ケアを充実させること、療養者自身が生命維持の基本となる栄養状態を整え、身体機能の低下を防ぐことが大切である。 疾患だけでなく複雑化した摂食嚥下障害を持つ要介護高齢者は多く、「食べる」ことをあきらめる療養者が多い。人間にとって「食べる」ことに対する思いは生活の質そのものである。延命措置ではなく残された人生をどう生きるかに焦点を当てたリビングウィルが問われている。経口摂食が在宅においても重要な課題になっている。しかし、「食べる」ための在宅ケアチームの「栄養、摂食・嚥下支援」はなかなか進まないのが現状である。 私は「食わせろー」と叫びながら亡くなっていった認知症の療養者と出会って「食支援」への思いが強まった。療養者とその家族に「誤嚥するから食べないで」と医療者側の捉える「誤嚥のリスク」を理由に悩む本人と家族に十分な援助ができない自分がいた。 この研究は、在宅において摂食嚥下機能の低下した療養者の「食べたい」を実現することが困難な理由がどこにあるのかを在宅ケアチームにおいて直接療養者にかかわる立場の訪問看護師、介護福祉士、ケアマネージャーへの面接から明らかにしようとするものである。これからの在宅ケアチームが療養者の「食べたい」をどう支援していくか、食支援の体制をどう構築したらよいかを検討した。 2:研究の方法 食支援の現状を明らかにするために医療職等への調査を実施した。調査の概要は次のとおりである。 (1)調査の目的:在宅の食支援に医療職等がどのようにかかわっているか、他の職種に何を期待しているか等。 (2)調査の方法:医療職等への半構造化面接調査 (3)面接調査の対象の選定と調査数 調査対象の選定に当たっては在宅ケアチームの食支援に直接関係の深い3職種とし、次のような選定基準をもうけた。①医療職として5年以上の訪問看護ステーション管理者の訪問看護師7人、②在宅福祉専門職として10年以上の経験を持つ訪問介護事業所管理者の介護福祉士7人、③10年以上の経験を持つ居宅介護支援事業所管理者のケアマネージャー7人 (4)調査機関:平成30年8月から10月 (5)調査の方法:半構造化面接調査 (6)主な調査項目:栄養、摂食・嚥下障害の療養者に対し、①食支援の状況・知識②多職種連携での情報共有③問題と感じる事④訪問看護師との連携⑤訪問看護師への期待。面接ガイドに沿って自由に語ってもらった。 なお、調査に際して放送大学研究倫理委員会の承認を得た。 3:調査の主な結果と考察 踏査の主な結果は次の3点である。 (1)栄養、摂食・嚥下障害における食支援に対して訪問看護師自身の役割認識が低い。 ①医療職としての予防や治療である吸引や誤嚥性肺炎、疾患の状態観察という意識が高い②低栄養や摂食・嚥下障害の食事介助のスキルやその知識に対して知識不足を感じている③医師の指示に誤嚥の危険があると責任が取れないという発言が多い④本人家族の食べたいという希望に応えきれないジレンマを感じている⑤医師や歯科医師、管理栄養士、言語聴覚士など多職種と連携して経口摂食を進める事に消極的であるが、専門的な医療情報を得て食支援をする必要性を感じている発言が多い。⑥禁食がオーラルフレイルを悪化させ、誤嚥につながるという認識が十分でない。誤嚥は起こるものであり、それでも食べる事で状態の改善を目指すという新しい経口摂食の知識がない⑦他のケアに時間を割かれ食支援の時間が取れない。情報を共有するための時間も取りにくいと感じている。 (2)3職種からの訪問看護師への役割期待が多いが期待に応えられていない現状がある。 ①療養者の健康の状態を把握している訪問看護師に栄養状態や食事摂食について相談したいができない。②食べることや障害に合った調理の相談をして栄養、摂食・嚥下の問題を共有し、指導を受けたいが十分にできない。③訪問看護師がいつも忙しく、他職種とのコミュニケーションをとる時間が少ない④訪問看護師には役割期待に応えるべき今後の研鑽を望んでいる。⑤訪問介護をしていて、誤嚥のリスク感が低いことで嚥下障害があっても食べたいと強く希望している療養者には食事介助することがよくある。 (3)3職種からの共通な要望は、栄養、摂食・嚥下の機能低下についての情報が訪問看護師から欲しい。 ①病院から訪問看護師への情報共有が少ない。②訪問看護師から福祉職に情報が欲しい。 住み慣れた家でこそ、自分らしい食事がしたいと願うのは、人間本来の欲求であり、「食べる権利」と言える。また、超高齢社会において華麗による嚥下障害は誰しも経験していく問題でもあり、これからの在宅ケアでは「食支援」の重要性は強まると考える。 3職種によるインタビュー調査の結果では、訪問看護師の役割認識と介護福祉士・ケアマネージャーの看護師への役割期待には大きな隔たりがあった。訪問看護師は療養者の食支援を「誤嚥リスク」の理由で直接関わることから遠ざかっていた。そして在宅の「食支援」はケアマネージャーが歯科医や管理栄養士や言語聴覚士をケアプランに位置付けてもうまく定着しないことが多いという意見が圧倒的であった。目の前に食べたいが食べられないと訴える療養者がいてもつながらないことが多いのが現状である。 4:結論 研究当初は在宅における食支援チームの構築が進まない理由が管理栄養士や言語聴覚士などの専門職の不足ではないかと予測していた。しかし調査後は、訪問看護師の担うべき役割が担えていないことが大きな理由ではないかということが浮かびあがってきた。在宅において療養者は生活的、医療的、社会的経済的など複合的な問題を抱えている。療養者の最も近い医療者である訪問介護士の新たな取り組みが求められているのではないか。 調査結果から「食支援」を在宅で薄めるための訪問看護師および関連職種の役割としてあげられることは、次の4点である。 (1)療養者の食べる権利と誤嚥のリスクを主治医と話し合い、療養者の食べたい気持ちに寄り添える意思決定ができるようにかかわる必要がある。 (2)低栄養の評価、食事支援の知識とスキルを高める必要がある。 (3)在宅における療養者の医療的・生活的・社会的な視点にもとづいた食支援の在り方を多職種で情報共有する (4)ケアマネージャーが食支援への意識を高めることで在宅食支援のケアチームの情報共有を進める 食生活における情報共有の不足は大きな問題である。在宅ケアチームが多職種連携のための情報をいかに共有していくのかのカギを握るのは、ケアマネージャーであると考える。訪問看護師が持っている情報はケアマネージャーと共有することで在宅ケアチームの情報共有につながると言える。訪問看護師の新たな役割への取り組みはケアマネージャーとの連携が重要であり、それが「食べたい」を支える食支援体制の構築につながるといっても過言ではない。 5:今後の課題 今後は、在宅における食支援の知識と情報共有について検討していきたいと考える。 ≪参考文献≫ 1)地域における栄養サポートチームの多職種連携と発展要件 柴崎美紀 2016年 これからの超高齢化社会において、さらなる在宅看護の社会的ニーズに高まりがあると思われます。訪問看護ステーションの経営と運営を試みて25年が経とうとしている今、その存在がこれからの高齢化社会において安心できる街作りに繋げることが重要と感じます。この論文を書いて、訪問看護師としての旨のつかえがとれ、迷わず多職種連携を実践していきたいと思います。そして在宅看護のこれからを担っていく訪問看護師が学会発表にも取り組めるような風土を作りたいと思います。論文の執筆は初めてで山田先生より賜りました心のこもったご指導と励ましは私の宝物となりました。心より感謝いたします。 ケアマネ愛あいリハビリ訪問看護ステーション 代表 大村 愛子 |
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